8〜10世紀、激動の東アジア情勢

今年の1学期に日本史の授業プリントとして「激動の東アジア情勢」という日本古代の対外関係史に関わるテーマのものを配布しました。私が作成したことを思い出したので、その内容を載せてみたいと思います。

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激動の東アジア情勢
<東アジアとは?>
 現在、「東アジア」の示す範囲としては、日本・朝鮮・中国に限定していう場合と、東南アジアとをあわせていう場合の2通りある。
 特に、1980年代に入り、韓国・台湾・香港・シンガポールといった、いわゆるNIES(新興工業経済地域)の驚異的な経済発展の動向に促されて、この地域に対して漢字文化圏儒教文化圏、中国文化圏といった呼び方がなされ、一つの文化圏としての「東アジア」が注目されるようになった。
 歴史的に見ると、朝鮮半島・日本列島・インドシナ半島のヴェトナム地域は、かつてコミュニケーションの手段として漢字を共有し、それを媒介にして儒教律令・漢訳仏教といった中国を起源とする文化を受容した。中国の中心部を含め、これらの地域を「東アジア文化圏」と呼んでいる。
 ただし、今の日本・朝鮮(韓国・北朝鮮)・中国といった国家ができたのは、近代以降、戦後を経てからであることに注意しなければならない。したがって、近代以前の「東アジア」という世界の範囲は、現在の国の領域範囲とすべて重なるとは限らず、このようなことを考慮しながら、「東アジア」という用語を使用する必要がある。
<東アジア世界の形成と発展(〜8世紀)>
 歴史的世界としての東アジア世界は、中国史の展開に伴って形成され推移する。その起点は、漢代であり、その後、東アジア世界が政治的にも文化的にも一体となって動いていたのは、隋・唐代において顕著であった。
 隋代の日本列島では、推古天皇(大王)・聖徳太子(摂政)・蘇我馬子(大臣)の三者による政治が行われ、対外的には遣隋使の派遣が開始された時期である。遣隋使派遣の最大の目的は、僧の留学が多く見られることから、最新知識(仏法・儒教・法制・医術など)の摂取であった。その後の遣唐使も、僧の留学や書籍の輸入が多く見られるので、隋・唐代の外交使節は、最新情報を入手することが主目的であったようである。
 このような現象は、朝鮮半島新羅にも見られ、朝鮮半島統一(676年)以前、7世紀半ば頃には唐との関係を持ち、友好関係と文化摂取(唐風化)に努めていた。これにより、朝鮮半島では新羅が勢力を増し、660年、百済を滅亡させた。
 百済の遺臣たちは、復興を図るため、日本列島の大和政権(朝廷)に軍勢派遣の要請をし、663年、朝鮮半島南西部の白村江で倭・百済遺臣と唐・新羅連合軍が戦うこととなった(白村江の戦い)。結果は唐・新羅連合軍が勝利し、その後、新羅高句麗を滅ぼし、676年に朝鮮半島を統一した。
 こうして七世紀末以降、東アジア世界では、唐・新羅・日本や698年に東満州沿海州地域に起こった渤海など、陸上・海上を通じて交流が促進していくこととなる。
渤海をめぐる動き>
《第1局面:720年代初頭、新羅渤海との対立》
 旧高句麗地域におけう渤海の建国(698年)と、唐による「渤海王」の冊立(713年)は、国境を接する新羅の脅威となり、新羅側の危機意識が増大する。720年代初頭、渤海の東南端で国境を接する新羅の東北国境地域における築城の記録が確認できることにより、軍事的対応が行われていたと見ることができる。
《第2局面:720年代、唐・黒水靺鞨と渤海との対立》
 渤海は、新羅との対立に加えて、北に位置する黒水靺鞨に加担する唐との間に新たな緊張関係が生じてきた。唐は、黒水靺鞨の地に対して、720年代に軍事介入し、黒水靺鞨との間に緊密な関係が形成されるのであるが、渤海は唐に対して、これは背後から渤海に攻撃を加えようとするものと強く抗議している。
《第3局面:720年代後半〜30年代前半、渤海、日本との連携を模索》
 新羅・唐・黒水靺鞨の圧迫にあって大陸で孤立した渤海が、727年に初めて日本への使節を派遣して日本との連携を模索した。以降、919年の間、使節が34回派遣され(渤海使)、また、日本からも728〜811年の間に渤海への使節13回派遣されている(遣渤海使)。
 その後、732年に渤海山東半島登州に侵攻し、唐はこれに応戦するため、新羅に救援を要請した。激寒の中で行われた戦争であったが、新羅の介入は渤海の危機意識をさらに高めることとなった。
《第4局面:730年代後半〜40年代、唐と渤海との対立に新羅が介入》
 唐による渤海の牽制はなお続き、新羅渤海の国境地帯における新羅側の軍事的検察が、新羅滅亡まで維持されることとなる。
《第5局面:750年代、渤海、日本との連携を本格化》
 渤海は、唐・新羅の軍事的脅威に対抗するために積極的に日本外交を展開する。なかでも、758年に渤海に派遣されていた小野田守が渤海使節と共に帰国し、唐国内で起こっていた安史の乱が日本に報告されたことは重要である。
《第6局面:750年代以降、新羅と日本の対立関係、そして・・・》
 渤海と日本の緊密な関係が、渤海と対立する新羅と日本との対立へと発展していく。これに加えて、新羅と日本との関係は、外交上におけるトラブルが多くあったため、対立・緊張関係はさらに高まり、779年を最後に新羅使節の来日はなくなることとなった。
 一方、渤海と日本との関係は、さらに親密となると同時に、渤海と唐との関係も友好関係へと好転していく。九世紀になると、来日する渤海使について、「商旅」(商人団)と言われるようになり、これまでの軍事的外交とは違う形の関係が展開していく。
<東アジア世界の展開(9世紀)>
 八世紀後半〜九世紀以降になると、それ以前の外交関係とは全く次元の違う動向が東アジア海域において展開する。
 八世紀後半以降、アッバース朝の積極的な貿易政策下、イスラーム海上商人(海商)の中国来航の増加により南海交易が活発となり、九世紀以降、中国を中心とした東アジア圏を含む西アジア北アフリカにまで及ぶ一大交易圏が形成される。
 一方、唐後半期九世紀頃より、東アジア海域の各地域の海商による交易も胎動し始めていた。この時期の東アジア海域は大きく2つの区域に分けることができる。
渤海黄海を中心とした遼東半島から長江河口域までの中国沿岸部に加え、新羅渤海・日本を含む地域
…九世紀初めには、新羅系海商が交易の主導権を握っていたとされ、九世紀前半には張宝高という(一時は新羅王族に急接近する)武将が出現し、朝鮮半島南岸域を中心に海上交易を取り仕切るまでになった。また、渤海系海商も交易に介入し、九世紀後半には中国系商人も乗り出している。
②東南アジアから広州を経て、沿岸沿いに長江河口域以南にまで至る地域
…ペルシア・アラビア人などイスラーム系海商が、東南アジアや中東から、香料・真珠などを中国の広州などにもたらしていた。
 このような状況に対して、日本列島内では、九世紀前半、渤海使新羅系海商がもたらすモノを購入するため、王族・貴族をはじめ百姓に至るまで、財産を注ぎ込んでいる。また、九世紀後半になると、中国系海商が中心に、「唐物」と呼ばれる絹・陶磁器・香料などのブランド品をもたらし、天皇・王族・貴族などが大宰府に使を派遣して積極的な購入を図っている。これらに対して政府は、律令に規定されるルール(政府が先に購入し、その後その他の人々が購入する)の遵守を警告する。東アジア海域における様々な活動が、海を介して、確実に日本列島に影響を及ぼしていた。
<東アジア世界の変貌(10世紀)>
 九世紀後半、唐は内乱(特に875年の黄巣の乱)や土地制度の解体などによって、次第に衰えていった。唐の弱体化は周辺諸地域に影響を与え、これまでの「東アジア世界」の一体性に変化が起こっていた。
 907年、唐は滅亡し、五代十国を経て、960年に宋(北宋)が成立するまで、諸地域が興亡を繰り返す激動の時代に入った。渤海も926年に北方民族の契丹(遼)に滅ぼされ、朝鮮半島でも935年に新羅が高麗によって倒され、その他の東南アジアなどの周辺地域においても、東アジア世界への対応に変化をもたらしていた(北部ヴェトナムの中国からの独立、イスラーム系海商の拠点の変化など)。
 大陸の激動に対して、日本の朝廷は、894年に遣唐使に任命されていた菅原道真の建言を契機に遣唐使の派遣を停止した。
 しかし、これをもって日本列島は「鎖国」的な状況になったわけではなく、九世紀以降、来航する海商による交易の展開は、大宰府を中心にさらにアジアとの関係を促進されていく。
 ちなみに、十世紀前半に日本列島を震撼させた東国での平将門の乱と西国での藤原純友の乱承平・天慶の乱)も、激動の東アジア情勢と無関係ではなかった。
《将門について》『将門記』に、将門が自分自身をキタイ(契丹)国王・耶律阿保機に準えて記している。つまり、契丹⇒将門、日本(国家)⇒渤海という想定で、契丹渤海を滅ぼしたように、将門が日本を滅ぼすといった意味を持つのであろう。
《純友について》九世紀後半以降の東アジア海域での交易活動の発展や列島内での水上交通の発達に伴い、瀬戸内海地域では、「海賊」が頻出し公私の財物を略奪していた。当初は、「海賊」を取り締まる側にいた純友は、やがて彼らと手を組んで、瀬戸内海地域の国々を次々と襲撃した。最終的には大宰府に至り、純友は「巨海」(東シナ海?)に出ることを願ったという。
 十世紀後半に宋が起こると、東シナ海では中国を中心に各地域の商船がさかんに行き交い、絹・陶磁器・香料などの貿易や文化交流が拡大し、それ以前の東アジアにおける外交を中心とした交流とは違った側面での交流が発展していくこととなる。
[参考文献]
○石井正敏『東アジア世界と古代の日本 (日本史リブレット)』(山川出版社、2003年)
川勝平太編『海から見た歴史―ブローデル『地中海』を読む』(藤原書店、1996年)
○松原弘宣『藤原純友 (人物叢書)』(吉川弘文館、1999年)
○李成市『東アジアの王権と交易―正倉院の宝物が来たもうひとつの道 (AOKI LIBRARY 日本の歴史―古代)』(青木書店、1997年)
○李成市『東アジア文化圏の形成 (世界史リブレット)』(山川出版社、2000年)