改めて問われるのか?「国家」論との関わり

題名を書き、このテーマについて書こうと思ったが、このまま書き続けると、「「網野史学」の何が悪い!」と言いたくなってしまいそうなので、この内容については書くのをやめよう、なんてわけのわからないことを書いてしまっている状況です(私のブログを見てくれている方では、サイトウさんのみがわかるネタになっております)。
「日本」を問うことは、「国家」(論)を構造的に分析・解明することを可能にすると思っていますが、なかなか理解が得られなかったりします。保立さん流の「封建制の放棄」についても、別に私は概念そのものを放棄するつもりはありませんし(ただし、「封建制」という言葉を無理に使って説明する意味は改めて問われるべきでは?)、平安期以降における国制(史)との関連で「封建制」を考える点については、私自身、「封建制」という概念から考えるところがあり、無効なものとはまったく思っておりません。
この点、桜井英治氏の「「網野史学」と中世国家の理解」(小路田泰直編『網野史学の越え方―新しい歴史像を求めてゆまに書房、2003年)で指摘されていますが、上部構造としての「封建制」概念を比較史的作業を基本として、そこから見えてくる類似点や相違点がなぜあらわれたのかを構造的に解明することの必要性があるということです。桜井氏は、そのためにマルク・ブロックの『封建社会』(岩波書店、1995年)(『封建社会〈1〉』『封建社会〈2〉みすず書房、1973・77年もあり)の見解にもっと注目・評価すべきだと言っています。たしかに、マルク・ブロックの研究については、『比較史の方法―歴史学叢書』『王の奇跡―王権の超自然的性格に関する研究/特にフランスとイギリスの場合』『新版 歴史のための弁明 ― 歴史家の仕事』などももっと再認識・再検討すべきだと思います。
私が研究面においてあまり議論・検討していないことなので、このことについてコメント・質問・疑問・批判を寄せられても応えられないことを、予めご了承下さい(マジです)。
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