秀吉vs.後北条、それぞれの立場

minamasa2006-02-23

今日は休み…ではなく、神奈川県私立中学高等学校協会の社会科研修会に行ってきました。内容は、「小田原の史跡を巡る」ということで、神奈川県内の社会科教員の方々と貸切バスで小田原方面のフィールドワークをしてきました。
行程は以下の通りです。

08:30  横浜駅西口天理ビル前集合・出発
 ↓バス
09:50  ①小田原、海蔵寺堀秀政の墓)
 ↓バス
10:10  ②石垣山一夜城
 ↓徒歩
11:30  ③小田原市№264遺跡(本石切丁場)
 ↓徒歩
12:50  ④昼食(食事処さくら)
 ↓バス
13:50  ⑤相洋中学高等学校着→小田原城空堀跡を歩く
 ↓徒歩
14:50  相洋中学高等学校発
 ↓バス
16:30  横浜駅西口天理ビル前着・解散

以上が、本日の行動の概要で、まず言えることは“とにかく歩きまくった”といったところでしょうか。運動不足の私には少々きつかった(笑)。
テーマは、豊臣秀吉による小田原攻め(1590年)を秀吉側(一夜城)・後北条氏側(小田原城)それぞれから現場に立って見てみようというものでした。1人で行ったら絶対に気づかないところばかりでした。
地図(http://map.yahoo.co.jp/pl?nl=35.14.53.092&el=139.9.26.324&la=1&sc=4&skey=%BE%AE%C5%C4%B8%B6%BE%EB&CE.x=95&CE.y=406
海蔵寺(かいぞうじ)
海蔵寺(1441年創建、曹洞宗)は一夜城跡への上り口にあり、小田原攻めの最中に病没した堀秀政の墓があります。ここから石垣山一夜城跡に向かっていくと、堀秀政の看板にはじまり、秀吉ゆかりの人々(徳川家康千利休淀君など)の看板が立てられており、一夜城跡に着くと、秀吉の看板がありました。歩きではなく、バスでよかった…。
石垣山一夜城跡(国史跡)
話には聞いていましたが、ここが小田原攻めの際、秀吉が本営として築いた石垣積みの山城です。私は初見参。ここは、関東で最初に造られた総石垣の城で、石積みは近江の石工たち(後の穴太衆)によるものと言われています(写真参照)。城跡を隅から隅まで歩きました。本丸からは、小田原城や海岸線が一望でき、秀吉はここに造るべくして造ったことを実感しました(後北条方の裏切り者の重臣が秀吉と通じていてこの場所に完成させたとのこと)。「一夜」で造ったとはとても思えない造り…それもそのはず、実際には1590(天正18)年4月5日頃から6月26日頃にかけての80余日を費やして完成したと言われています。
小田原市№264遺跡(本石切丁場)
石垣山一夜城跡の南西にある石切丁場、ここは、江戸時代初期に江戸城の石垣に使用するための製品化された石が多く発掘されており、現在調査中というところです。90㎝×90㎝×180㎝くらいの石がごろごろと発掘されており、その光景は圧巻でした。かながわ考古学財団の方から丁寧な説明を受けました。ありがたい!
④昼食(食事処さくら)
上記③の地点から下りの道を2㎞くらい歩き、やっとの思いで昼食場所へ。魚料理のお店で、金目の煮付けが美味でした。
小田原城空堀
現在の小田原城天守閣は江戸時代以降のもので、後北条氏時代の小田原城はもう少し西の小田原高校があるあたりと言われています。この小田原高校がある周辺には、数多くの空堀が残っています。今回は小田原高校の西、相洋中学高等学校の裏にある城山公園付近にある3つの空堀を、小田原市教育委員会の方の案内で実際に歩いてきました。堀を見ることはよくあることですが、実際に歩くというのは初めての経験かもしれません。現在の小田原城は見学せず、後北条氏時代の空堀だけを見学するというのもこういう研修ならではの醍醐味です。1人で行ったら絶対にとらないコースです。
朝早くて辛かったのですが、またとない経験をさせてもらいました。良い勉強になりました。