王権研究会のお知らせが来ました

来月行われる王権研究会のお知らせが来ました。
以下、その詳細を掲げます。

王権研究会 第11回例会
【日時】 2006年3月12日(日) 午後2時〜
【会場】 専修大学神田校舎7号館 764教室
コーディネイター】 仁藤敦史氏
コーディネイターより】
今回は広瀬和雄さんに古墳時代の政治構造を論じていただきます。考古学でいう古墳時代記紀の記載と重なりますが、戦後の文献史学は「記紀」批判という制約から、四世紀や五世紀の時代像をネガティブにしか語ってこなかったという問題があります。毎日のようにマスコミに掲載される新たな考古学情報に対して文献史としては十分なコメントがされていない、あるいはできないという不幸な状況が長く続いているといわざるをえません。今こそ、考古学との協業により新しい古墳時代像を提起することが求められていると思います。古墳時代像の新たな構築という意欲的な試みを積極的にされている広瀬さんと王権研究会メンバーとの率直な議論によりこの問題を深化させることを期待します。
【報告者】 広瀬和雄氏国立歴史民俗博物館総合研究大学院大学
【タイトル】 前方後円墳国家序説」
【報告要旨】
3世紀中頃〜7世紀初頭、北海道・東北北部と沖縄を除いた日本列島で約5,200基、築造された前方後円(方)墳は、画一性と階層性を見せた墳墓であった。画一性は<亡き首長がカミとなって共同体を守護する>との前方後円墳祭祀を、階層性は<目で見る前方後円墳国家>を各々表象した。また、前方後円墳は地域的色彩も強く、そこには中央政権の意志と地方首長層の意志が二重に体現されていた。
大型古墳は圧倒的に畿内に集中(墳長超200mは32/35基、超100mは140/302基)し、その築造には膨大な量の労働力が投下された。さらに、威信財(鏡や碧玉製腕飾類)や権力財(武器・武具)を畿内首長層は大量に集積したが、少ないながらもそれらは地方首長層にも初期から普及していた。つまり、<もの・人・情報のネットワーク>に支えられた首長層の利益共同体があったわけだ。地方首長層は非自給物資や高度な技術や情報入手のためにそこに参画し、大和政権―大和を中心にした畿内首長層―が卓越した軍事力で、その利害調整にもとづく社会秩序維持や対外交渉など遂行した。
<領域・軍事・外交・イデオロギーで保持された首長層の利益共同体が前方後円墳国家>だが、大和政権がそれを運営した。それは大王を輩出した畿内の有力首長層によって共同統治された。前期大和政権(3世紀中頃〜4世紀後半頃)は6〜7の有力首長が、中期大和政権(4世紀末頃〜5世紀後半頃)は4有力首長が、それぞれ多数の中小首長層を統率し、中央政権の政務を分掌した。
前方後円墳に表された政治秩序の本質は、共同性(われわれ意識の共有)と相対性(階層性)であった。つまり、首長層が統率した列島各地の地域社会は、優劣はあるものの一定度の自律性をもって併立していた。すなわち分権構造をもちながら、中央―地方の関係をもった政治団体前方後円墳国家であった。
「中央史観」や「古代専制国家」へのアンチテーゼからか、「地域性、多様性」ばやりだ。そこでは「違い」と「差異性」が強調され、「同じ」や「共通性」が捨象されがちで、<概念化と体系化>への指向性は弱い。前方後円墳が造営された350年間を、いつまで「古代国家形成過程」「律令国家の前史」とみなすのか。「古代国家=律令国家」の先験性への疑問や、階級史観や発展段階論的な国家概念(初期国家→成熟国家)などの吟味と、新たな古代国家像の構築がいま急務だ。<歴史学(考古学)の有効性はどこにあるのか>といった問いかけは必要ではないのだろうか…
【参考文献】 広瀬和雄著『前方後円墳国家』(角川選書、2003年)

この日は、前日から勤務校空手部の遠征で松本にいます。行けません…残念です…。
帰ってきて飲み会だけにでるわけにもいかないので…。