「東アジア」とは?なおわからず…
先日購入した雑誌『文学』(第6巻−第6号、2005年11・12月号)の特集は「東アジア―漢文文化圏を読み直す」というものです。この特集にともなって座談会が同テーマ名で掲載されています。
「漢文文化圏」?
これは、この座談会にも参加している中国文学が専門の金文京氏が提唱しているものとのことです。従来、「東アジア」は漢字を共通の文字として使用することから「漢字文化圏」と言われています。
金文京氏は、「漢文文化圏」について、以下のように述べています。
漢字文化圏と言った場合、漢字にあまりにも重点が置かれすぎているような気がします。(中略)漢字は非常に造語力の強い、結びつきの自由な文字ですから、漢字をどう結びつけて文章を作るか、そこに非常に多様なあり方が存在します。漢字から派生した文字、それと漢字との混用も含めれば、さらに多様なあり方が見てとれます。漢字をめぐるさまざまな有り様を共用している一つの文化圏ということで、漢文文化圏と括ってみてはどうか(後略)(10〜11頁)。
確かに文字だけで話したり、記録をしたりするわけではなく、それは常に文を作成して伝えるわけですから「漢文」という言い方には納得がいきます。
なお、この座談会には、日本近世史の荒野泰典氏、日本思想史の増尾伸一郎氏、日本文学の小峯和明氏が参加しており、①東アジアの自己認識、②海禁が意味するもの、③東アジアの学芸、④資料学の国籍を超えて、⑤漢文小説をめぐる、⑥訓読と翻訳、⑦東アジアの世界観、といった様々なテーマから「東アジア」について討論し、見つめ直そうという試みがなされています。
歴史を専門としている私にとって、小説などの文学資料はわからないので非常に参考になり、また、それらの資料を現在のヒトが読み込み解釈していくという過程と思想的背景におけるナショナルアイデンティティの歴史的経過の問題などは非常に刺激的に思いました。ただ、一方で疑問点としては、討論全体を通して読んでいて感じたのですが、あたかも「東アジア」という「目に見える区切り・括り」があるような“錯覚に陥る”ことです。「東アジア世界の領域が時代とともに変化している」(15頁)、「西洋のキリシタンも日本だけでなく東アジアの文脈でみていく必要がある」(28頁)、「東アジアレベルの学際的共同研究」(29頁)など、現在進展している「東アジア共同体」構想などを意識しての討論だと思うのですが、これらの場合の「東アジア」が自明のものになってしまっているような気がします。
ボーダーレス、グローバリゼーション、ネットワークなど繋がりが意識されている時代に(これらの概念が万能とは思いませんが)、「東アジア」という概念が「関係」を如何にあらわすか?私自身の宿題でもあります。
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