合宿がらみでご紹介

昨日のところで、夏休みに知多半島の野間というところに行ったことを書きました。
期間は8月23日〜26日。空手部には顧問が二人いまして、前半は私がいて、後半はもう一人の顧問がという形で合宿の引率をしました。前半はもう一人の方が研修にいっていて、後半は私が東京で行われる国際シンポに参加しなければならなかったので。
さて、空手部の合宿ということで、宿舎の近くの小学校の体育館で練習をしていたわけですが…、そういえばあのとき中部地方に向けて台風が近づいていて本当にそんなところに行って大丈夫なのか?と心配しましたが…。
それはさておき、前半で帰った私は、帰り際にせっかく知多半島まで初めて来たので、一つくらいは歴史的なものを見に行こうと思い、野間にある“大御堂寺”通称“野間大坊”を見てきました。
野間大坊について、パンフレットによると、以下のように書かれています。

天武天皇(673〜86)の時代に始まり聖武天皇(723〜49)の時、行基菩薩が中興します。後の弘法大師が諸国行脚の際留錫し、一千座の護摩を焚き、庶民の幸福を祈りました。承暦年間(1077〜81)に白河天皇勅願寺として、大御堂寺と称せられました。後の源頼朝公が亡父義朝公の菩提を弔うために建久元年(1190)に開運延命地蔵尊と不動明王毘沙門天を奉安させ、七堂伽藍を造営します。そして秀吉公、家康公の庇護を受けて発展。現在尾張地方随一の祈祷寺として信仰を集めています。

内容の真偽のほどは不明ですが(なぜお寺の紹介には「有名人」ばかり出てくるくるのか?特に、行基弘法大師)、源義朝平治の乱平氏(清盛など)に敗れた際に、この野間大坊に落ち延び、そしてここで家臣に謀殺されるというのは事実のようです。
ちなみに、野間大坊には、江戸初期の幕府御用絵師の狩野探幽源義朝最期の絵解があります(説明有料、要予約)。
白河天皇勅願寺」「大御堂寺」というところは、院政期前後の歴史を考えるに当たっては面白そうですが、どうも私には天皇や寺院がらみのことを調べる気持ちにはなれません…。
選択授業の世界史特講で、「靖国問題」で宗教がらみのことを勉強していますが、これもかなりの限界が!とも言ってられません。現在、近代天皇制の特殊性を浮き彫りにすることとそれを相対化するために、非キリスト教圏のイランとインドの近代化と国家・祭祀の関係を勉強しております。
数年前は、「私は対外関係史、国際関係史を勉強・研究しているから、宗教・祭祀関連のことをまず追究することはないな」と言っていましたが…。