良いテーマなのに…

少し前に購入した小島毅著『義経の東アジア』(勉誠出版、2005年9月)を少し読んでみました。
表紙には、以下のようなことが書いてあり、非常に興味深く思っていたのですが…。

中国大陸での宋金2大国の抗争が源氏と平氏の命運を分けた―わたしたちになじみの深い「義経像」も「武士道」も、じつは東アジア海域のなかで生まれたものだった。いま話題の源平時代の背景を、日本を超えるスケールで巨視的によみとく。

まず、第一章「義経の時代と東アジア情勢」を読んでみた。第1〜2節は、非常に「くだけた」文章で中国情勢と歴史が綴られており、さすが中国史の専門家と思っていたのですが…。
第3節「日宋貿易の商品」に差し掛かった時です。20〜21頁に、このように書いてあります。

 平家は清盛の父忠盛(1096〜1153)のときから宋との貿易に熱心だった。『詳説日本史』にはこうある。高校時代にマーカー片手に読んだ記憶をもつ読者も多かろう。
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 平氏は忠盛以来、日宋貿易にも力を入れた。すでに十一世紀後半以降、日本と高麗・宋とのあいだで商船の往来が活発となり、十二世紀に宋が北方の女真人のたてた金に圧迫されて南に移ってからは、宋(南宋)の商人がさかんに通商を求めてくるようになった。これに応じて清盛は、摂津の大輪田泊(現、神戸市)を修築するなど、瀬戸内海航路の安全をはかって宋商人の畿内への招来につとめ、貿易を推進した。
 清盛の対外政策はそれまでとくらべると大きな変化であり、宋船のもたらした多くの珍
(ここから21頁)
宝や宋銭・書籍は、以後のわが国の文化や経済に大きな影響をあたえた。また貿易の利潤は、平氏政権の重要な経済的基盤ともなった。
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 先生にさされて女子生徒が代表で音読させられたりすると、男子生徒は本書でちょうど頁をまた(※実際は``で強調)がっている単語に卑猥なはやしたてをしたりしたものだ。「よく聞こえませ〜ん! もう一度読んでくださ〜い!」(などと、見てきたように言ってますが、私は残念ながら男子校だったので、こうした経験はありません。それにしても、山川さん、どうしてわざわざこんな単語を使うんでしょうか?)
 それはさておき、ここで重要なのは、この「海外ならではの珍しい特産物」のほかに、宋銭や書籍も日本に輸入されていたということである。(以下、省略)

正直、この文章を読んで「もうこの本を読み進めても意味ない」と思いました(実際に最後まで読みませんでした)。このようなブログに書いたり、エッセイであればまだしも、単著を多く出している専門の研究者ですよ…。「あとがき」で母校の先生に感謝している著書ですよ…。
山川出版社が、日本史の教科書で「珍宝」という表現をあえて使用する明確な理由があります。それは、「貿易の利潤は、平氏政権の重要な経済的基盤ともなった」の根拠となっている『平家物語』の一節です。

日本秋津島は、纔に六十六箇国、平家知行の国卅余箇国、既に半国に超えたり。其外庄園・田畠いくらといふ数知らず。綺羅充満して、堂上花の如し。軒騎群集して、門前市をなす。揚州の金・荊州の珠・呉郡の綾・蜀江の錦、七珍万宝一として闕たる事なし。

これは山川出版社の『詳説日本史』にもあげられている史料であり、「珍宝」は「七珍万宝」という記載からの表現であることは明白です。
なお、『平家物語』から導き出される平氏政権の経済的基盤としての日宋貿易については、近年、山内晋次氏によって批判されています(山内晋次「日宋貿易の展開」加藤友康編『日本の時代史6摂関政治と王朝文化』吉川弘文館、2002年)。以下の通り。

当時日本にもたらされた唐物の優品は、当然、強大な権力を誇った平氏一門のもとにもっとも集中したであろうから、この文章はたんに、知行国・荘園からの莫大な収入の結果、平氏一門が唐物の大口消費者となっていたことを示す文章に過ぎず、その政権が貿易から莫大な収入をあげていたことを確証する材料にはなりえないのではなかろうか。(中略)この一節はやはり、その一門の華麗な消費生活の文学的な表現にすぎないように思われる(267頁)。

小島さんは、素直に宋銭や書籍の議論に入るべきだったと思うのは私だけでしょうか?