歴史学は冷たいのか?―朝河貫一の「熱なき光」

日本史の授業の予習でいろいろな本を読んでいたら、歴史学者朝河貫一(1873-1948)の話が出てきました。戦前のとても有名な国際的な歴史学者ですが、恥ずかしながらどんな人かあまり知らなかったので、ここで少し紹介したいと思います。以下、大日方純夫『はじめて学ぶ日本近代史・下』(大月書店)に拠ります。

1873年福島県安達郡二本松町生まれ
1892年、東京専門学校(後の早稲田大学)文学科編入入学
1893年、洗礼を受けキリスト教徒に)
1895年、同校を首席で卒業、アメリカへ
1899年、ダートマス大学卒業、エール大学大学院歴史学科へ
1902年、学位論文『六四五年の改革(大化改新)の研究』でPh.D(博士号)
1906年、来日し日本関係図書の収集に専念
1907年、帰米してエール大学講師(日本文化史担当、同大学図書館東アジアコレクション部長→以後、1948年までの40年間)
1917年、日本中世史研究のために東京帝国大学史料編纂所に留学、九州を調査旅行(1919年帰米)
1925年、日本での調査成果の公表=『入来文書』(1929年にはエール大学出版会とオックスフォード大学出版会から英文版"The Documents of Iriki"刊行)
1942年、エール大学定年、名誉教授
1948年、死去(74歳)

朝河は、日露戦争以降の日本の外交について、しばしば批判をしています。
第一次世界大戦前後の日中関係について、その基本は、①日中の共同共進、②東洋の自由、③東西(東洋と西洋)協調、の3つだとしています。しかし、実際の日本外交は、朝河の期待とは逆方向に。
その後、朝河は、1920年シベリア出兵批判、1931年満州事変批判、1939年ヒトラーの自殺予言、1941年日独伊三国同盟の敗北の予見、などをします。
あるとき、国際ジャーナリスト松本重治(1899-1989)が朝河に対して「先生、歴史学とはいったい何ですか?」と質問したところ、朝河はおもむろに「熱なき光である」と答えたといいます。

<大日方氏のまとめ(52頁)>
歴史学とは過ぎ去った現実、冷めた過去を相手とする学問です。政治学や経済学のように、直面している“熱い”現実そのものを扱う学問ではありません。それ自体は“熱く”はないのです。しかし、歴史学は現実と無縁に存在しているわけではありません。過去から未来へ向けての長い射程距離の中で、歴史学は現実の意味を照らし出そうとしています。歴史学からの光をあてることによって、歴史によって拘束されている“熱い”現実の意味とその行方は、かえってよく見えてくることがあります。熱さの渦中にいて、その熱さの意味をとらえることは、意外と難しいのです。朝河が「熱なき光」に込めた意味を、こんな風に解釈することはできないでしょうか。過去を扱いつつも、現実を照らす光であることを忘れてはならない。ある意味で、朝河の生涯そのものがそれを証明しているように思えます。
☆参考文献:阿部善雄『最後の「日本人」―朝河貫一の生涯』(岩波現代文庫

以上、歴史学を学ぶ意味が凝縮されたもので、それは“熱き心”を持つというよりは“光ある視点と目的”を持って学問に対峙し未来に目を向けることを教えてくれたように思えます。
私は、知人・仲間の中では冷たいことで知られているので、歴史学を専門とすることが似合っているのかも知れないと思ったりもしてみました(笑)。
余談ですが、私は勉強をするときに音楽を必ず聞きながらやるのですが、集中したいときは古典的なクラシック、考え・思いつきを喚起したいときは布袋寅泰ローリングストーンズ・エアロスミスなどのロック、あと最近はアイアン・メイデン(最近出たライブアルバムを何となく買ってしまいました。某進学塾WAの悪同僚I先生の影響か?)を聞いています。聞いている音楽は、意外と情熱的だったりします””””。