この時期にこんな人が!!

日本史の授業の関係で、最近、石橋湛山が気になっています。

石橋湛山【いしばしたんざん】
1884.9.25〜1973.4.25、政治家、ジャーナリスト。東京の日蓮宗僧侶の家に生れる。早大卒。東京毎日新聞、兵役を経て、1911年東洋経済新報社に入社。以後第2次大戦終結時まで、リベラルな経済ジャーナリストとして活動。戦後,46年4月に実施された戦後初の総選挙で自由党から立候補し、落選したものの吉田内閣に蔵相として入閣。公職追放解除後、鳩山内閣通産相保守合同後の56年12月、自民党総裁選で岸を破り、第2代総裁。12.23に首相に就任、冷戦路線からの離脱を訴えたが、病気のため翌57.2.23に退陣を表明し、2日後に退陣。在任期間は65日間。(『岩波日本史辞典』より)

ちなみに、東洋経済新報は、

東洋経済新報【とうようけいざいしんぽう】
1895.11.15東京で創刊された経済雑誌。後の立憲民政党総裁町田忠治が東洋経済新報社から発行。天野為之・植松考昭(こうしょう)・三浦銕太郎(てつたろう)・石橋湛山らが歴代主幹を勤め、大半の株を主幹名義で保有する独自の経営方式により、一貫して自由主義の立場を堅持。とくに植民地を放棄する小日本主義を唱え、軍備縮小を主張。初め旬刊で1919年10月より週刊化。浜口内閣の金解禁を批判、大恐慌襲来の予測が的中すると打開策を提言し、経済界の信頼を高めた。60.12.24、2977号より「週刊東洋経済」と改題し現在に至る。(『岩波日本史辞典』より)

特に、石橋湛山の「一切の棄つるの覚悟―ワシントン会議にあたって」(『東洋経済新報』1921年7月23日号、『石橋湛山全集』)は、この時期の文章としてはかなり「共感」すべきものかもしれません。

  若し政府と国民に、総てを棄てて掛るの覚悟があるならば、
  会議そのものは、必ず我れに有利に導き得るに相違ない。
  例へば満州を棄てる、山東を棄てる、
  其他支那が我国から受けつつありと考ふる一切の圧迫を棄てる、
  其結果は何うなるか。
  又例へば朝鮮に、台湾に自由を許す、
  其結果は何うなるか。
  英国にせよ、米国にせよ、非常の苦境に陥るだろう。

1921年11月から開催されたワシントン会議の前に、湛山が上のように主張しています。
この背景には、1919年の朝鮮の三・一独立運動、中国の五・四運動といった、日本の反植民地・反軍国主義民族自決運動があり、これらは第一次世界大戦後のパリ講和会議でのヴェルサイユ条約の内容が影響しています。
湛山は、このようなアジア情勢を受けて、「総てを棄つる」ことを強調してます。その「棄つる」ものとしては、満州山東省(半島)の権益、朝鮮と台湾の植民地をあげています。
戦後日本の状況を「予言」するようなことになっているのでしょうか?
もう少し、湛山について調べてみたいと思う今日この頃です。